2010年6月23日水曜日

RTAの表現形式に関する雑感

文書の形でレポート公開したり、リファレンスを示したりするのはRTAをやって改善しようという人のための利便のためという側面はありますよね。

あるいは、RTAの歴史をまとめようとする人のための利便かもしれない。いずれにしろ蓄積されて、共有されるものが財産であるという。

そこで情報処理の効率を高めるため、文書の形にまとまっているというだけでなく、読みやすく整理されていなければいけない。アカデミックな文書がフォーマットに厳格なのはそうした価値を尊重しているからのはず。

しかし一方で公開されたものを読んで楽しむという人がいるわけで、というかやり込みの「お客さん」を考えるとそれが大半なわけで。そうした層を考えたとき、文書の書かれ方も違ったものになってくるし、あるいは動画などの別メディアがプレゼンテーションとして面白ければ、そっちに表現が移行していくことになる。

ここら辺は、音楽における楽譜出版と録音物との関係に似ているかもしれません。録音がなかったころは音楽を広く公表する手段は楽譜出版でした。今はそうではありません。むしろ楽譜が世に出てない音楽がほとんどで、そうした音楽を分析するには耳に頼るしかない。その音楽が、誰の影響を受けて作られたか、それは語られない限り聴いて推測するしかない。

その辺、アカデミックな世界をお手本にした流儀とは大きな隔たりがあります。どちらがいいかを決めようとすれば衝突が起きるのは当たり前だし、流儀の異なる方に自分の流儀を押し付ければ反発が起きるのも当たり前です。

やり込みに特別な権威があるわけではなく、やり込みを楽しむ人にやり込み人口拡大は支えられていると思うので、「面白いメディア」が強いのは自然です。ですからRTAも動画を見て、やりたい人はそれを見て自分なりに分析して…というふうになっていくのかもしれません。レポートに現れないプレイングの腕とかもあるから、実際に見ることでしか得られない情報もありますよね。ここら辺も録音物と楽譜の関係によく似ています。

ゲーム研究会的には、音楽で言えば「ライブ」に相当するRTA大会をやるとともに、たいていそれらの事後レポートをコミックマーケットで売る会誌に載せて販売しています。

アカデミックな流儀の良さを信奉するのであれば、レポートのフォーマットをちゃんと決めて、それに則ってレポートを公開していくという流儀を、そちらの方がいいと信じる人が実践していって広めていくしかないように思えます。その流儀が結果的にすごい作品を生み出して、その流儀を尊重して動画配信などで面白いプレゼンもできたとすれば、その流儀の価値が認知されていく…そんな感じなのだと思います。

それか、レポートが文芸として成り立つ…つまり読んで面白いレポートを残すというもう一つの道もあるかも。「読み物」として優れたやり込み作品を残す例は、極限攻略研究会の一部の本などをはじめいくつか私も知ってます。が、そうした才能(例えば木村昌弘さんとか…)はだいぶ貴重ですので、そちらの道が定着することはない気がします…。

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